2010年9月20日 (月)

鬱憤考

ハンガリーで聞いてきた話。
民主化のあと、しばらくハンガリーの自殺率は世界でトップクラスだったらしい。
それが、ある方法でぐんと順位を下げることができた。

それは、自殺志願者専用のカウンセリング機関を全国に設置したこと。

でも、今、ブダペストの民度みたいなものが下がってるのも確からしい。
若者に鬱憤がたまっているのかもしれない、とのことだった。

人生の鬱憤。
不幸せ。

それを考えるとき、いつも世界の歴史を考える。
アイルランドのじゃがいも飢饉。
フランス革命のときの民衆の貧困。

ランボーの鍛冶屋という詩には、民衆の鬱憤と、それをはき出すために革命という暴動に参加した鍛冶屋の姿が描かれている。

鬱憤。

歴史が積み重ねては暴発させてきた鬱憤を思えば、自分の生活に生まれそうな鬱憤などプラズマクラスターにたちまち滅菌してしまう。

だがだがしかし、世界にはまた鬱憤がふつふつとふつふつとしているのだった。

沼畑直樹

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2010年8月24日 (火)

広く生きる、多くを生きる事の解放感。

僕は海外へは行かないし、国内旅行すらあまり行かない人間ですが、沼畑 さんの言いたい事は何となくわかるような気がします。

カミュが言っていた「俳優」という職業によってより多くの人格を演じ、その「甦り」と「死」を経験し、多くの「生」を生きる事で得られる充実。
それと沼畑 さんの言う世界の都市を意識し、その情報を得る事での充実や開放感は、ひょっとしたらある見方では近いのかもしれません。

僕の場合は音楽という芸術で、ある種一つの世界を創造し、そこに充実や解放を求めていると自分で感じるところがあります。
創造という作業は、内に向いているようで、実は外に向いている。

地球が東京だけで人種も一つだけだったら、今と世界の土地の広さは一緒でも、何だか風通しの悪さと言うかそれこそ開放感が無くなる気がします。
と言うか「世界」という言葉のニュアンスも変わってきますね。
感覚的に「世界」が狭くなる。
そう思うと「意識をする事」で得られる開放感というのは確かにありますね。

沼畑さんは歴史も好きですよね。
それももしかしたら、歴史を知る事で長い時の流れを意識し、多くを知って得られる充実や解放への郷愁なのでしょうか。

佐藤雄駿

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2010年8月23日 (月)

海の向こうに都市があって、憂鬱から解放されるのです

子どものころは自分の住んでいる街で見るものや起こることを基準に気分が変わり、人生の予想をするけど。
海の向こうに素敵な街があることを知って、その狭い心が解放される。

東京だけの人生なら少し憂鬱になりそうだけど
ロンドンやニューヨーク、アムステルダムやコペンハーゲンやザグレブや上海があるなら大丈夫な気になる

会社に長いこといると、会社の中の何かに価値感は狭められていくけど
外に楽しい会社がまだいっぱいあると思えば大丈夫だろう たぶん

世界の複数の都市を相手にして、しっかり情報を掴んで、いつもいい気分になっています。

佐藤くん。地球に都市が東京だけだとしたら、ほんとに辛いよね。

沼畑直樹

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2010年7月16日 (金)

思念

Imgp8472

思念』


必要な事だけを知って


必要な曖昧さを許して


必要な至純を手に入れる


あと少しで枯れる花を


見届ける事が出来なかった


想い続ける事は喪失だった


願い続ける事は破綻だった


傷つける事は孤独だった


強張った躯に為す術も無い


僕はまた愛想笑いを取り繕う


君の為に僕がいたならよかったのに


そう思い続けている


lyric and photo by yuta sato

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2010年7月11日 (日)

置き去りになって

Imgp9152


『置き去りになって』

 

置き去りになって


終わらない自己嫌悪


呼吸を止めた風景


鳴り止まぬ警鐘


荒唐無稽に散らばる背徳


先走る焦燥


元はと言えば何も無かったのに


元を辿れば何も無かったのに


僕に運命を与えてくれなかったのは


唯一の僕を奪う為


肘掛けだけは奪わないで欲しい


君は僕のようにならないで


それだけは奪わないで欲しい


lyric and photo by yuta sato

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2010年7月 8日 (木)

暑い

世界中が暑いね 南アフリカは冬か

沼畑直樹

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2010年6月22日 (火)

魅力的とは思えない

僕も最近読んだ本に、人体の冷凍保存の事が載っていました。
冷凍保存でも、頭部だけを保存するコースもあるそうです。
身体の方は、未来で調達するという事らしいです。

ミシガン州にあるライオニクス研究所は他の機関の冷凍保存より格安のコースを売り出しているようです。
相場が一千四百万円に対し、クライオニクス研究所が売り出したのは三百三十万。
キャッチコピーは『どこよりもお求めやすい価格で』だそうです。

冷凍保存されても、冷凍された人体はとてもデリケートですから、保存中の管理には常に不安があります。
冷凍装置の故障や停電ですぐに駄目になってしまう可能性がある。
実際2006年にフランスで保存されていた二体が、保冷室の故障により駄目になって火葬されました。
火葬された二体は夫婦で、夫の方はクライオニクスの先駆者として有名な博士でした。
二体は息子によって火葬されたそうです。

佐藤雄駿

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2010年6月16日 (水)

自我の糸

Imgp9207

『自我の糸』


自我を求める自我に捕われた


抜け出せない惰性に身を委ねる


もうこれまでか


必死の諦念を抱く


微かに海風を感じようとも


心地良さは妄想だった


この目で見る事は無かった


本当は知っている


為す術も無い事を

lyric and photo by yuta sato

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れいとうにんげん

アメリカのミシガンには人体冷凍保存研究所があるらしい。
未来に復活するため。

沼畑直樹

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2010年6月 6日 (日)

「積極的安楽死」と「自殺幇助」

スイスでは、医師による末期患者への自殺幇助が法的に認められているそうです。
オランダやベルギーでも安楽死が合法化されていて、アメリカのオレゴン州やワシントン州でも、州議会で法案が可決しています。
これらは積極的安楽死(薬物等を投与して直接患者を死に至らしめる安楽死)を指しますが、これを「自殺幇助」と言われれば確かにそうだなと思います。
末期患者を肉体的苦痛から解放する為の医師による「積極的安楽死」と、自殺志願者を精神的苦痛から解放する為のディグニタスによる「自殺幇助」。

ディグニタスの存在も含め、スイスでは自殺も一種の尊厳死という認識なのだろうかと思いました。


佐藤雄駿

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2010年6月 1日 (火)

自殺には失敗がある

自殺には失敗があって、その後遺症で苦しんでいるという情報が少し気になったかな。
ディグニタスの代表が言うには、首吊りは途中で発見されると、血が脳にいかない時間があるので、その後の人生は台無しになると。スイスの氷河で凍死するのも、途中で発見されると足の切断。

そんな話を自殺志願の若者にすると、完全に気分が晴れて、自殺を止めたらしい。(ガーディアン誌)

沼畑直樹

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2010年5月28日 (金)

「自殺防止」と「自殺者支援」

先日、犯罪加害者の家族を支援する団体に所属するAさんと話をする機会がありました。
その時Aさんに自殺の防止活動をしている住職さんの話を伺いました。
その住職さんは自殺しようとする人から連絡を受けると、24時間いつでも全国車で駆けつけるそうです。
実際、どこまで対応出来ているのか詳細はわからないのですが、そういうスタンスで活動しているそうです。
Aさんは自殺の「防止」という言葉があまり好きではないと仰っていました。僕もそこは深く同感したところです。
ネットで検索しても「自殺防止」を謳う団体は多数あるけれど、「自殺者支援」で検索しても一致するものはあまり出てこない。
「死」を否定するのは、その人の「生」を否定する事につながる。
「防止」という言葉にはそういう否定的な強いニュアンスが含まれているように感じます。

スイスのディグニタスのような幇助団体は日本では当然無理ですよね。
けれど「自殺防止」より「自殺者支援」の方が、もう少し自殺へのタブー感が拭えるような気がする。
自殺を推奨するという意味では無く「自殺者支援」の方が、この息苦しい空間の風通りが多少は良くなるのかもしれないと思うのです。


佐藤雄駿

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2010年5月27日 (木)

自殺について自由に語る

スイスは自殺幇助が認められているから、ディグニタスという幇助団体があるみたい。
代表のミネリという人の信条は「自殺について自由に語れるようにすること」→自殺願望が弱まる
「幇助をする人がいることを示す」→苦痛をやわらげ、安心感をもたらす
「しっかりとしたサービスで尊厳死を行う」→悲劇的な自殺未遂者の数を減らす

沼畑直樹

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2010年5月26日 (水)

爛れる

Imgp9091


『爛(ただ)れる』


爛れるままに朽ちていく


見違える姿が手に取る様に


本当の姿は隠したままで


遣い古された幻を


日常の虚しさを


真率な愚かさを


捨てきれぬ感情を


胸奥に留めている


明日にはもう


耳が無い

lyric and photo by yuta sato

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2010年5月24日 (月)

傍観

Imgp9093_2


『傍観』


私を傍観しているようだ
 

鋼鉄の眼差しで 


独りでに声を失った


ザワメキだした焦燥で


僅かな可能性を失った


空虚な窓から見下ろせば


黒々とした廃墟が広がる


「あと、もう少しだ」


そうやって私は


いつまでも


気が狂れるのを


待ち望んでいる



lyric and photo by yuta sato

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2010年5月23日 (日)

沼畑さんへ。アラスカ行きたいです。

アラスカと言えば、上野の国立科学博物館でやっている『大哺乳類展示』の中で星野道夫さんの展示をやっていますね。
沼畑さんは行きましたでしょうか?
僕はまだ行けていないのですが、6月13日までやっているのでそれまでには必ず行こうと思っています。

朝倉さんの落ち込みからの復活の早さは、何となく想像が出来ます。
僕もよく漠然とした不安に捕われて、気が滅入る時があります。
『黒い鳥が騒ぎだした』と、僕はよく言うのですが、そんな時はじっと静かにして『黒い鳥』が去っていくまでやり過ごすしかありません。
だから、僕の場合は復活までもっと時間がかかる。

ジョギングは僕もしています。適度な運動は必要だと思います。

佐藤雄駿

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2010年5月22日 (土)

佐藤くんへ 忙しいのは嫌だけど、アラスカまでフライトシュミレーターで飛びました

少々忙しいのは、ちょっと滅入ります。
まぁでも一般的な忙しさに比べたら全然か。
サッカーの戦術論を読んでるときが盛り上がります。
最近は温かくなってベランダで本を読むのも楽しい。
MIDIキーボードを買ったのでピアノも楽しんでます。
読んでる漫画は「ヒストリエ」
買ったばかりのiMacでgoogle earthのフライトシュミレーターでシベリアからアラスカまで飛びました。
あと、走ってます。

だから、ちょっと滅入ってもすぐ復活する。

前に話してたアラスカ、行きたいね。

沼畑直樹

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2010年5月21日 (金)

闇の此処

Photo


『闇の此処』


一寸の光も無い


闇の此処に僕は生まれた


その事に気付かず生きるところだった


此処の闇に頭蓋をも覆われるところだった


秘密であるなら発く術もあろう真実も


此処には無い


静寂の闇に僕は消えていく




lyric and photo by yuta sato

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2010年5月19日 (水)

沼畑さんへ。ご無沙汰しております。

相も変わらずNON'SHEEPの歌い手として、何とかやり過ごしている日々です。
そもそも僕の歌は『死を想う為の歌』という気持ちで歌って参りましたが、近頃『死を意識せずにはいられない自己と向き合う為の歌』でもあるのだな、とそんなふうに感じているのです。
そういった意味でも『ウェハ』の存在は重要であるなと思うのです。

沼畑さんは近頃いかがでしょうか?

佐藤雄駿

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佐藤くんへ どんな具合で しょう? 近頃の東京で 歌を歌いながら

ウェハで対談してしばらく経ちましたが、最近どんなでしょう

沼畑直樹

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2009年11月30日 (月)

瞬間意識 第一回 「私とは何か」 沼畑直樹

世の中に哲学はあふれている。
が、現代の日本で、実際に哲学を読んだり理解する人は少ない。
身辺に限って言えば、皆無かもしれない。

それでもある日、「私」とはいったい何なのか?
と、哲学的な問題が脳で計算をはじめるときがある。

それが哲学だと分かっていても、ニーチェやサルトルをめくろうとは、まったくもって思ったりしない。
本屋で手にとってみる。
どのページも難しい言い回しと専門用語。現代に生きる私たちに「入ってくるな」と言っているのかもしれない。

「私とは何か」とは、宗教的な問いでもあるけれど、正直なところ、戦後、脱宗教の教育を受けてきた現代日本人にとって、キリストや仏教、神道について必ずしも人生で深く考える必要がなく、私にとっては宗教が人生の手助けにはなっていない。宗教的観念で精神を救おうと思ったことはわずかしかない。

宗教にも哲学にも守られない、裸の精神。
人類が作り上げた宗教と哲学に頼らずに、「私とは何か」を考えることができるのだろうか。

「私とは何か」と、ごく普通の日本人であり、哲学と宗教とは無縁の私がどうして考えたのか。
それは以下のエピソードの通り。

ある日、映画を見た。
それは、『シックス・デイ』という若干つまらない近未来ものだった。
その物語の中で、ある男が死にそうになる。
時代は未来なので、クローン技術は高度に発達している。
その最先端技術は、記憶やDNAをその男から取り出して、年齢も体も記憶もまったく同じクローンを数時間で作る。
その男が死んでしまうその前に、元気な自分が生まれ、血を流しているその男をクローンが見下ろすことになる。

それが、ぞっとする光景なのだ。

興味深いのは、まわりの友人や関係者には、黙っていれば何も変わらないことだ。友人にとっては、自分のことを覚えている懐かしいその男がまたあらわれるので、ちょっと入院していた友人が退院したのと変わらない。
抱き合ったり、握手したりして、お互いを確認しあえば、それでオーケーだ。
世の中に「私」は、いつも通り存在している。

それでいいじゃないかと、映画の中の「世の中」は言っているのだ。

そのとき、人が思う「私」と、本当の「私」は、違うものなのかもしれないと、哲学を知らない凡人は考えた。

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2009年11月29日 (日)

瞬間意識 第二回 「乗り移ったわけでもなく」

まわりの人が同じように愛してくれる自分が生き残った。
世の中はいつも通り。
誕生日パーティだってやってくれるだろう。

そのときの新しい私は、本当に私なのか。

もちろん、最初の、本当の「私」ではない。
自分は新しいクローンに霊魂として乗り移ったわけではないからだ。

どう考えたって、「私」は、死んでしまった。
脳で起こる神経の作用や、電気や磁気が起こす何かは、ぷっつりと途絶えて、「私」は消えてしまった。

私は消えてしまったのに、偽物の自分が生きている。

そのとき、生き残ったクローンに対して、あなたはどう思うだろうか。

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2009年11月28日 (土)

瞬間意識 第三回 「もう世の中にいません」 沼畑直樹

新しいクローンが生まれ、死に際に挨拶を交わすとする。
新しい彼を、あなたは我が子のように応援したくなるだろうか。
もしあなたが運良く生き延びて、それでも瀕死の状態だとする。そこで、健康なクローンが隣で笑っていても、気持ちよくいられるだろうか。

もし憎い、と思っても、世の中にとっては、憎いあいつは「あなた」だ。。
昔の思い出を共有でき、考え方も何もかも同じなあなた。
違うと言い張るのは、傷ついた瀕死の、弱虫になったあなただけ。

元の「私」は思うかもしれない。
その、みんなが認めている同じ名前の、同じ顔した人は、「私」ではありませんよ。
顔は同じですけど。
声も同じですが。
私じゃないんです。

彼は、私の夢をこれから叶えてくれるかもしれないけど、私じゃないんです。
私は体から血を流して、苦しんで死んだのです。
彼は幸せそうな顔をしてますが、私は、もう世の中にいません。

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2009年11月27日 (金)

瞬間意識 第四回 「世の中にいる私」 沼畑直樹

Img_0171

それならば、大事なのは、大切な「私」とは、そもそも何だったのか。
人が見ている私、人の記憶の中にある私ではなかったのか。
社会の中の一員で、人類の歴史の中に生きる私ではないのか。
名声のみを得んとして生きた歴史上の人物は多いと聞く。名が残れば現世の苦しみなど我慢できるのではないのか。

違うのかもしれない。
結局は、世の中が認める自分なんかどうでもいいのかもしれない。
自分の体とともにある自分、私が、何よりも大事なのではないか。

そうなのか?

その私は、体の停止とともにぷっつりと終わる。
はかないものである。
自分の体とともにある自分、私は、体を替えることができない。
考えるという行為をしている意識は、体と一体化している。
意識は、この体とともに、幸せや楽しさを感じていたいと思っている。

意識、私とは、臓器移植のように、別の体に移植できない。
クローン、コピーをしてまったく同じものを作っても、それは私じゃないのだ。

瞬間意識 第五回「意識には「今」しかない?」

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2009年11月26日 (木)

瞬間意識 第五回「意識には「今」しかない?」

Img_0284 ここでずっと考えている体の中の「私」とは、その意識のことだと思う。

たとえば、自分があるビデオに映っているとする。
それはまわりから自分の名前で意識される自分。
それを観ていても、私はここにいる。
テレビの前にいる。テレビの前で、「あ、映ってる」と考えている。それは逃れようがなく、この体の中にがんじがらめというか、「永遠」のように存在している。
霊魂のように、他人の体に乗り移って人生を愉しむことはできない。
「私」は常に体の中のどこかにあって、出ることができない。

人が見ている自分よりも、自分の内面にあるこの意識こそを大切にすべきだと思い、それならばその私、意識とは何なのかと、考えている。

考えているうちに、意識には、瞬間しかないのではないかと思ったのだ。

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2009年11月25日 (水)

瞬間意識 第六回「かけがえのないもの」なのか

「私とは何か」
自問する。
脳みそのあたりで、「私とは何か」という言葉のイメージがあらわれる。
「わ た し と は」
そのうちに、時間は過ぎていく。
「私」は時間とともに動き、決して止まらない。
記憶や写真に「私」は残るが、「幸せだな」とか「気分悪い」と感じる「私」は常に今しかない。

記憶や写真に残った私とは、前に考えた、人が認める社会の中の「私」ではないか。
つまり、つい5秒前や、1分前、昨日の記憶は、すでに別の「私」になってしまう。
未来も同様だ。

それが正しいのか間違っているのかはとりあえず答えがないので、そうだとする。
すると、本当の私、意識、自分は、瞬間の「今」しかなく、まったくもってかけがえがない。
すぐに滅びて、再生し、続いていく、今この瞬間。
それが「私」なのか。

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2009年11月24日 (火)

瞬間意識 第七回「今が大事とは、何なのか」

過ぎ去った意識、つまり記憶は、人が認める自分の姿であって、本当の自分は「今」その瞬間にしか存在しない。
それが正しいのかどうか。
今、マックブックエアでこの原稿を書いているこの瞬間も、その答えは出ない。

キーボードを叩きながら、NHKの朝ドラの「つばさ」を見ながら、お茶を飲みながら、今、この文章を書いているのは少し楽しいと、私は思っている。

今、この瞬間の意識が大事だということは何なのか。

「今を生きる」という言葉を耳にしたことがあっても、「今」を本当に意識して、今を楽しもうと思ったことは、果たしてどれほどあっただろうか。

未来のために、将来のためにと考え続けるのが人間であり、大切だと思い続けた自分にとっては、「今」だけを大切にするというのは衝撃でもある。

「今」だけを生きるのは、「堕落」のように感じていたからだ。

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2009年11月23日 (月)

瞬間意識 第八回「〈今を生きる〉は、現代に通用しないのか」

悪いように書けば、いくらでも書ける。
今だけを見て生きることの弊害。

一日中友人とトランプ。
麻雀。
ゲーム。
パチンコ。
酒。

駄目な人生。
堕落。

それをアンチテーゼに生きている人は多いはずだ。
未来を見て、自分を向上させる。

逆に、ポジティブに考えてみる。
トランプ。
ヨーロッパの多くの人々の毎日を熱狂させ、退屈な毎日を楽しいものにしてきた。
コミニケーションを円滑なものにし、思い出を共有させ、会話を楽しむ。
ストレスの発散には最高。
麻雀も同様。映画「ジョイラッククラブ」を観ているとそう思えてくる。
いつも卓を囲んで麻雀ばかりしている親たちだが、その卓を囲んで、親たちはさまざまな人生の思い出を共有している……。

ゲーム。
やり過ぎて死んだ人もいるというから、それは肯定できない。
ただし、このゲーム産業を生み出したのは、ゲームばかりやっていた子供たちかもしれない。

パチンコ。嫌いなのでわからない。それでも、パチンコがないと毎日がつまらなくてどうしようもない人もいるかもしれない。

酒。
今ちょうど、アルコール依存症から立ち直った人がテレビで言っていた。
「今のことしか考えない」
将来のことを訊かれての答え。問題が起こったときに考える、今のことをしっかり考えて生きたい。
今しか考えないというその答えは、その番組の聞き手のプロデューサーにとって、「素晴らしい考えだ」とは到底思えなかったに違いない。
進学校から大学へ進むということは、将来をしっかり考え、不安だからこそ今を捨て、勉強に励んできた結果。そこに誇りを持っている人々にとって、「今だけ」はやはり堕落の象徴なのだ。

やはり、「今だけを生きる」というのは、現代では通用しないのだろうか。

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2009年11月19日 (木)

瞬間意識 第九回「実は映画のワンシーンのように美しい人生」

映画ではよく、人が楽しく語らい、酒や食事を楽しむシーンが登場する。
素敵なものだ。
自分の人生に足りないもののような気になったりする。
ヨーロッパやアメリカの大都市に行くと、金もないし、アジア人だし、ちょっと高級な店には一人じゃ入れない。
店内は素敵な灯りで、楽しそうだな、と思う。

それは、本当に自分の人生にないのだろうか。

実際は素敵な店で、素敵な居酒屋で、わいわいと素敵に友人たちと食事をしている。
ビデオで撮影でもするとよく分かるはずだ。

それに気づくことはあまりない。
それに気づくには、「今を楽しもう」という意識が必要だ。

そう思い、友人たちと酒を飲んでいるときに、「今、この瞬間を集中して、楽しもう」と意識した。これは映画で観たような、人生の1ページであると。

そうすると見えてくるものがある。
美味しいお酒。友人の表情。食事。
灯り。
雰囲気。
自分の気持ち。

普段なら、終電のこととか、仕事のこととか、時々余計なことを考えてたり、数多くある食事のひとつ、くらいにしか思わない。

それが、瞬間を意識するだけでがらっと変わる。

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2009年11月18日 (水)

瞬間意識 第十回「今を見つめて生きるのはけっこう難しい」

「私」について考えてきた。

私はこの体と一心同体であって、離れることはできないと知った。

名声だとか、人の評判、過去、未来よりも、最上位に大事なのは、今の自分だとした。

つきつめると、瞬間になった。

しかし、今だけを見ていて生きていると、何も成さないかもしれない。

一方で、今だけをしっかり見つめると、楽しさ、充実感につながるかもしれない。

ならば、つらいとか、ゆううつとか、人間が抱える精神は、「今をしっかり見つめること」で、果たして薬になるだろうか。

だとしても、「今をしっかり見つめること」は、案外むずかしいーーー。

アップルCEOのスティーブ・ジョブスは毎朝、今の自分は本当に望んでいる自分なのかどうか自問するというが、あなたはできるだろうか。

日本の会社の「カイゼン」のように、毎朝自分に自問自答する。
本当にやりたいことをやっているか。

しかし実際には生活があり、電車にのって会社に行かなくてはならず、学校に行かなくてはならず、気の合うとも限らない大勢の人と会わなくてはならない。今の仕事は決して自分で望んでいるわけではなくても、給料は必要だ。
書いてるだけでも憂鬱になる。

そうなると社会のシステムそのものの批判になるので、やめておく。

ただ、いつの時代も、やりたいことをやるために、今を精一杯生き抜いた人々はいた。

たとえば、恐怖政治と今もフランス国民におそれられる「レヴォリューション」、フランス革命だ。

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2009年11月16日 (月)

瞬間意識 第十一回「堂々とギロチンにかけられたフランス革命の闘士たち」

フランス革命が起きた時代。
それは、上流貴族の子供はとにもかくにも順調に出世し、庶民は努力と才能があっても上には行けない時代。
最初に革命を盛り上げた人々は、「自由に生きる、さもなくば死」をテーマとしていた。
必死の覚悟。
必死の覚悟で、その自由を世界の都市にひろめていくべきだと考えていた。

国家財政の破綻により、今まで税金を払わなかった貴族に税金を払ってもらおうとしたルイ16世の案よりフランス革命は始まった。
税金法の改正のために三部会の収集(第一身分は僧侶、第二身分は貴族、第三身分は庶民)をすると、第三身分は自らを「国民議会」と称した。

この画期的な庶民による議会を、国王が認めるか認めないか、それが国民と関心事となり、噂、恐怖心により暴動「バスチーユ陥落」が起きた。

そこからは雪崩のように運動は加速し、ギロチンが発明され、それにアイディアを出した国王さえも処刑される。

およそ2800名。

それが革命のさなか、内部粛正などでギロチンにかけられた人数。

それでも多くの人が、それにあわてふためくわけでもなく、革命のために人生を捧げ、思い残すことなどない、といったふうに、堂々と処刑台に立ったという。

それほど、革命によって変わったものは大きく、革命の動乱は彼らの「今」を燃えさせ、激しく震えたはずだ。

現代に生きる日本人には想像もつかないほどに、彼ら彼女らは今を生きた。

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2009年11月13日 (金)

瞬間意識 第十二回「DNAは今を忠実に生きる」

「死を恐れない」ほどに、今を生き抜く。
それは、今の日本の社会では現実的ではなく、だからこそ輝いて見えることもある。

フランス革命や明治維新ではそうして多くの人が命を落とした。

一方で、革命のない時代に生きる我々は、今を燃焼させる方法はないのか。
実は、普段の平凡で静かな毎日でも人は今を追求するDNAを持っている。

マット・リドレーという人が、「やわらかな遺伝子」
という本で、DNAが人生に及ぼす影響について書いている。

知能は子供時代、50%が環境に左右され、残り50%が遺伝、つまりDNAの影響を受けるという。環境とは家庭環境、学校、地域社会のことだ。
しかし人間は、いずれ学校を卒業する。仕事以外の時間を自由に使うようになる。
やりたいことをする。
本を読む、映画を見る、スポーツをする、観る、勉強する。
そうして、遺伝子の影響が60パーセントになり、中年で80パーセントになる。
人は、スポーツ好きの遺伝子を多く持っていればスポーツばかりする人になる。
本好きの遺伝子が多ければ、毎日本を読む。

結局は、遺伝子によって我々の知能や性格、趣味がほとんど運命づけられているというのだ。

「生まれか育ちか」
その答えがそこにあった。

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2009年11月12日 (木)

瞬間意識 第十三回「生まれか育ちか」

「生まれか育ちか」
それは、遺伝子(生まれ)や環境(育ち)の影響度から考えると、20歳ごろまでは半々で、それ以降は遺伝子(生まれ)が圧倒的な力を持つ。
環境の影響を受ける子供時代は、互いに競争させることでどんどん伸びる。しかし、大人になると競争よりも「今」を自由に生きようと人はするのが本能ということになる。
それが、スポーツ選手だったり、企業戦士だったりすると、環境の影響もまだ大きく、犠牲も強いて競争を続ける。
それでもスポーツ選手はそのスポーツが好きだから、今をしっかり生きることができる。でも、企業戦士はそうとは限らない。本当はスポーツが好きなのに、電気製品の営業でライバル会社と戦っていたりする。

本当はもう、競争なんてうんざりなのだ。
好きなことをしていたい。

昔から自由に、好きなことを頑固にし続けて、脈絡もなくそのときそのときを好きなことに没頭してい生きている人も、それが何十年も続くと、何か立派なタレントが身についているかもしれない。

結局、長く続けるというのは、遺伝子がそれを好きかどうかというだけなのだ。
「好きこそものの上手なれ」は現代遺伝子学でも正しい。

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2009年11月11日 (水)

瞬間意識 第十四回「環境は自分で見つけ、作り上げるもの」

今を大事に、集中して、自分の好きなことをしっかりやり続けていると、誰でもプロフェッショナルなスキルを手にする。
自分の好きなことは何か自問自答して、見つけ、楽しむこと。

そう書くと、ジョブスが言っていた毎朝の自問自答もわかる気がする。
彼が言っていたのは、本当に朝自問自答しろと言っているのではなくて、好きなことを今できるような環境に、しっかりと自分を置いているか、と問いかけている。
大人になって、環境に支配されてはいけないと。
環境は自分でみつけ、自分で作り上げるものだと。

人間は頭がいい。
計画的に物事を運べる。
高層ビルも建てられる。

人生も計画的に運ぼうとする人もいる。今を犠牲にして10年後のためにトレーニングを続けることなど、美徳とされる。
計画的にお金をためて、投資・運用をする人もいる。

しかし、自分の中にいる、今の「私」は、今、その瞬間の幸せを常に求めているはずだ。
それは数年前の計画的な人生設計のおかげで成り立っている幸せかもしれないが、本当に果たして計画通りだろうか。
数々の出会い、偶然によって成り立ってはいないだろうか。

断言すれば、
10年先は、実はまったく予想がつかない。
ましてや、自分の10年後など、つくわけがない。
世の中の仕組みは想像を超えて変化し、災害も起きる。
自分が事故を起こしたり、犯罪に巻き込まれているかもしれない。
死んでるかもしれない。

予想がつかないのに、人はお金を借りる。
金貸し業は上手くできているーーー。

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2009年11月10日 (火)

瞬間意識 第十五回「銀行は毎月の人生を決めてしまう」

銀行や金貸し業では、毎月の入金を定める。5年後にまとめて返すのでは駄目で、とにかく毎月の決まった時間までに細かく入金しろという。それが何らかの事情があって、あとに入金できたとしても、小切手の不渡りなどが起こる。
人生は何が起こるかわからないのに、毎月の人生を決めている。

もしもその月に返せないとなれば、担保となっている不動産などの財産を没収。不況ならば格安で破産した会社や人から多くの財産を手にすることができる。

毎月の家賃分を使って同額でローンを組み家を買うなら問題なさそうだが、それでもサブプライムローンの問題が起きた。変動する金利ほど恐ろしいものはない。

人生は予想できないのに、社会は計画しなくては生きていけないような仕組みになっている。賭けに出て原資を借りて、成功すれば儲け、経営者として生きていける。借りなければ、いきなり事業をはじめることはほとんどできない。

国自体が大昔からお金を借りて運営しているのだから、もうどうしようもない。

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2009年11月 8日 (日)

瞬間意識 第十六回「明日のことはやっぱりわからぬ」

自分や人類の成長・発展は、ほとんどが偶然から起こると大きな声で言ったとしても、信じる人は少ない。
賢く考えて、予想し、計画的に人類は発展を遂げてきたはずだと考える。

しかし、やはりほとんどが試行錯誤、失敗と成功の繰り返し。
手術も科学も、偶然から発見があった。
計画的になったのはこの100年くらいのことだ。

計画的になると、その場その場の対応が鈍くなる。
無理に計画を通そうとし、時代の流れを掴めない。
計画通りにいかないと、ネガティブになる。

今を見つめ、集中するということは、常に最新ニュースのウェブページを更新していくようなものだ。
つい何分か前のページはすっかり記憶から消して、生まれ変わる。
過去に固執しない。
未来に固執しない。

それでも人は予想する。期待する。将来を憂う。
その予想のつかない10年後に怯えて、「私」という精神は崩壊しやすい。

でもどんなに怯えても、明日のことは誰にも分からない。

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2009年11月 6日 (金)

瞬間意識 第十七回「消えては生まれる瞬間意識」

私は知らない人と頻繁に会うのは苦手だけれども、考えてみれば人と会うたびに何かが起こる、はじまる。
面倒だけれども外出して、新しい店の外観を観たり、雑誌を立ち読みすると刺激を受けたりする。

もうそうなると、明日のことも予測つかない。

考え方を逆にすると、「1時間後に何に出会うかわからない」「明日魅力的な何かが起こるかもしれない」と期待することもできる。たいていの人はしないが。

そうやって、今、この瞬間に起きることに集中し、今目の前にある問題に必死で取り組み、試行錯誤をするということは、本当に大事なことに思える。
今さらのようで幼稚くさくもあるけれど、たぶん大事なんだと。

草木の揺れや風の気持ちよさ、夕日が照らす木の幹。
子供の声、友人の笑い声、家族の団らん。
そういった今ある美しさを敏感に感じ取ることも大事なんだと思える。

「私」は、今という常に流れていく時間と、共にある。
「私」は過去にストップしないし、未来に飛んでもいかない。
瞬間の今の私こそ、私であり、幸せであるべき人だ。

言い換えれば、「私」は、この瞬間の今しか存在しない。
はかなく消えては生まれる、瞬間の意識でしかない。

〈瞬間意識〉終わり

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2009年10月20日 (火)

死についてのお話 第一回

死に方の観念は多様であること

沼畑(以下A)
最近、偶然なんですが、私の親しい人がこんな本を持ってきたんです。〈知識偉人99人の死に方〉という本なんですが、99人の死に様や、死に対する観念が描かれている本で、非常に面白い。

佐藤(以下S)
面白そうですね。

A 丸山圭三郎という教授は、死があるからこそ生の喜びがある、死を拒否するのではなく、正面から見つめることで生が豊かになる、ということを言っていて、佐藤くんが日頃言っていることに近いなと。

S そうですね。生の中に死があるということですね。

A ほかにも、葬式などするなと言う人や、いろいろ面白いことを言っている。堂々としてるんです。思想家でタレブという人がいて、「人生は予測がつかない」ということを言っている人なんだけれども、たとえば人が処刑されるような目にあっても、堂々としていろと言うんです。この本に出てくる知識人もそうだし、昔の武士道に近いところもある。それがどうして良いのかはわからなくても、なんとなくこの考えを受け入れられる気がしないですか。

S そうですね。わかります。あと、作家の遠藤周作とかは自分がガンでもできれば教えてほしくないという人だったらしいんですけど、死ぬ瞬間まで知りたくないと。単純に怖いからだそうです。彼はカトリックですよね。仏教が根付く日本では死をいかに受け入れるかってとこに美学があるイメージで、宗教上でも死への向き合い方のギャップがあるのかなって。

A 硫黄島では栗原中将というリーダーが、自決はするな、バンザイ突撃はするなと言うんですが、「なぜ潔く死なせてくれないのか」と部下が反発する。戦後教育を受けた世代は、なぜそんな無駄死を部下たちは望んだのか理解できないと思うし、そういう映画をアメリカは作る。でも、「潔い死」っていう言葉をいろんなところで聞いていると、その無駄だと100%言い切る必要はないと思えてくる。今は完全にそれを悪にしているけど、そこまで悪と捉えていいものか。

S 潔く終わらせる事を強さとする、引き際の大事さみたいな考え方が日本人の日常には根付いてる様に思う。

A でもそういうことをこのサイトで言っていいのかと、未だに思うんですけど。たとえば自殺者を減らしたいという報道を見ると、本当に減らしたいと思うじゃないですか。一方で、そういう死のパターンもあったんだと肯定することもしたい。でも、そんなことはメディアではタブーだし、肯定することで自殺者が増えたらどうするんだと非難される。

S テーマが非常に大きいというか、根本を覆してしまう意見ではありますね。でも、その疑問を抱いている人は多いと思うし、その答えが出るとは思わないけど、考えている人たちがそのモヤモヤをもっと考えられるような状況があったらいいですよね。

A みんなタブー化するけれども、それを考えている人はいっぱいいて、それなのにないことのようにしていいのかってことですよね。

S 自殺を選んだ事を否定するのは、その人の人生を否定する事になると思う。それじゃあ残された遺族だってより辛い。そんな権利は誰にも無いし、僕はそんな事は絶対したくない。硫黄島の話もそうですよね。

(続く)

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2009年10月10日 (土)

死についてのお話 第二回

生の権利が拡大し、死の知識は縮小する

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沼畑(以下A) 生きること、生きる権利に対しては、かつてないほど拡大して、発展してきたと思うんです。でも、死に関しては、考え方や知識、経験が減ってきた。昔は見たり感じたり、死んでしまったり、あったはずじゃないですか。寿命も短かったし、戦争もあったり、飢餓もあったし、自然災害の被害も多かった。死体を見たり、野生動物の生死を見たりした。
佐藤(以下S) 今ってどんどん死が遠くなっていっているから、それを考える人は苦悩が多くなっている気がしますね。当たり前にあるはずのものが、当たり前にない。
A そう。それで、このサイトのコンセプトですが、やはりバランスかなぁと。
S はい。
A 生きたっていいし、死んだっていいし、それを自由にすることで、今、楽になって生きていけるならと。もちろんそれで自殺者がなくなることはないですが。
S 自殺を選ぶ人って、結局生きることが苦しいから自殺を選ぶ。生きることが苦しいということを受け入れるというか、何と言えばいいのかわからないですが。自分は悟りを開いているわけでもないけど、自殺をしたいという人に対して、生きてるのは辛いよねとしか言いようがない。自分は相手の気持ちになれないし、自分という人間がその立場だったらというふうには考えられるけど、自分がその人の本当の気持ちなって言うことはできないと思うんです。本当にその人だったら、やっぱり辛いなと思うと。だから「生きてるのは辛いよね」しか言えない。あとは、「自分は自殺しようとは思わない」と言うと思う。肯定も否定もしたくない。
A よくあるメッセージで、生きることを大切にしよう、生きることを粗末にしない、というのがありますが。
S はい。そうですね。うーん、じゃあ、命を粗末にするっていうのはいったい何なのか、問いたいですね。今日ちょっと思ったのが、朝電車で来るときに、本を読んでいて、電車降りても集中して読んでたんです。その本の内容が死に関することだったりとか、自分が考えなくてはいけないと思っているものだったんです。そのとき、前から盲目の方が歩いてきていて、ぶつかりそうになったんです。それって相手からすると凄く迷惑なわけで、僕は目が見えるのに見ようとしてない。僕はこれを読むことが良いことで、考えなくては生きてはいけないと思っているのに、その結果この人に迷惑をかけてしまった。生きようと考えようが、死のうと考えようが、生きてれば迷惑をかけるのだと。人間は迷惑をかける。そんな命を、粗末にするって何だろう。
(続く)

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2009年10月 9日 (金)

死についてのお話 第三回

地球に迷惑をかける人間 それも自然の摂理なのか

A 最近、人口が急激に増えていて、たとえばある生態系で、ある動物が天敵がいなくて増えていくと、天敵を食い尽くして、飢餓となって減っていき、天敵がまた増えていく、というのがあるけど、今人間は地球でどんどん増えて、地球という資源を食い尽くそうとしている。たしかに、地球にとって人間の存在は迷惑ですよね。
S それは人間が生きたいという欲望が大きくなっているせいですよね。
A もともと地球に人間はいなかったわけだし、人間がいなくても地球はいいんですよね。地球の環境や季候は、今生きている自分たちのままにしようとしている。本当は自然はどんどん変わっていくのに。たとえば氷河やツンドラ、乾燥地帯などは大きいスパンで上下して、それに合わせてゆっくりと人も移動してきた。たまたま今、サハラ砂漠があれくらいの大きさで、ヨーロッパはああゆう季候で、氷河はアイスランドあたりにあってと。それはたまたまそうなわけで、地球はもっとダイナミックに動いている。今、人間がしようとしているのは、これからも変わっていく元気な地球に対して、コンクリートで埋めるみたいに固めていくような感じですね。でも、それはローマ時代から始まっていて、もう僕もコンクリートの街の中で生きたいわけだし、戻ることもできない。もう末期なんでしょうね。僕も佐藤くんも、迷惑。
最近の環境問題はそのダイナミックな地球の変動を、人間の行為でさらに大きく動かしてしまったんだから、それはそれでやっぱり凄いことをしてしまっている。それは元に戻さなくてはならないけど、元に戻しても迷惑な存在であることには変わらないから、満足してはいられない。
S 思うのは、人間が我が者顔で地球に迷惑をかけていること自体が、自然の摂理なんじゃないかと。それに対してどうなんだろうというのも自然の一部。どうしたって自然の中の一部なんだろうなと。


A 大自然の被害ってのはいろいろあるけど、ひとつひとつ見ると、被害者の一人ひとりに家族があって、物語があって、ドラマティックで悲しいし、悲劇を亡くしたいと思う。免震の技術が普及して、地震被害が少なくなってほしいと思う。でも、自然災害で人が亡くなるのは、確かに自然の摂理でもある。二つのことを認めるのは矛盾しているから、正論にはならないけど、仕方がない。
S 当事者と第三者の間には埋められない溝があって、当事者の考え方っていうのがありますよね。自分がもし当事者になったらどうなんだろうって思います。変わってしまうかもしれないし。わからないですね、それは。
(続く)

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2009年10月 8日 (木)

死についてのお話 第四回

今日、遺書を書くのなら

沼畑(以下A) 佐藤くんがこのサイトのコンセプトとして挙げたテーマの一つに、「今日、遺書を書くのなら」という言葉がありました。もしそれが今日だったらという質問をしたいのですが。
佐藤(以下S) 僕だったら、両親に向けてまず書くと思うんですけど、今日だったら、「今日はいい一日でした」ぐらいです。それくらいでしかないです。
A これをテーマの一つにしたのは、あなたも考えてみたら? という意味? 
S 遺書を書くというのは、これから何秒後か何時間後か、近々に死ぬという状態じゃないですか。遺書をかけるっていうのは、死ぬときを自分で分かっている。そういうときの心理状態が、一番安堵感があるんじゃないかなぁと。絶対的なものがあって、今からそこへ行くっていう状況。上京した人が、自分の母親のもとに帰っていくような。それを想う、死を想う、遺書を書くっていうのは、きっと本当に死ぬことを受け入れることだと思うんですよ。明日生きられるという安堵感よりも大きなものだと思うんです。
A 次の「死を思いながら生きていく」というのは?
S これは、死ぬっていうことが覆い隠されている世の中で、死が見えなくなっている。この状態で生きていくっていうのは、向かっていく先が分からない。行き先がわからないから、本当に迷ってしまうというか、道に迷ってしまうことだと思うんですよ。もし分かっていれば、あの場所に行くということが分かっていれば、今どうすべきか分かると思うんです。思わないと、探さないと見えてこないので、見る側として、隠している社会がどうのこうのじゃなくて、思うことが大事なんじゃないかと。

A 「5秒後に生きている確率」というのは? 5秒後に死んでるかもしれないよ、ということ?
S そうです。もちろん誰にも分からないんですけど。常に、死ぬかもしれないと考えるのは無理ですけど、「今を生きる」っていうことです。すごくリアルに思ったら、不安が先にくるかもしれないけど、普段考えることで、心の準備ができる。
A どうしてこういうことを考える? 今が平和だから? みんなが考えてないから?
S 死を考える方法論かな。本当に5秒後死んだらどうしようという問題ではない。
A 環境によっては本当に5秒後に死んでしまうような紛争地域もありますよね。
S そういうところに住む人って考えるじゃないですか。普通にしてれば生きていられると思わない。だから、この言葉はそうではない環境にいる人に向けなければいけないもので、それをどこまで想像力をわかすのかというのは難しいですけど。
A でも平和に80、90歳まで幸せに生きている人もいて、それはそれでいいじゃないですか。それでも佐藤さんがこういう言葉を言いたいのは、今生きていることに充実感を感じてなくて、精神的に辛い人に言いたいんじゃないですか。
S なるほど。
A もし爆弾がすぐ落ちてくるような環境だったり、いつ武装集団にさらわれるかもしれない人が、明日不安だから死にたいとか、思うのかどうか。
S 思わないような気がしますよ。
A たぶん多くの人が、ひりひりとした生の充実感というか、今日の晩ご飯は本当に美味しかった、とか、大事にするところが違うというか。ロシアの人は今不景気ですが、消費はすごいそうです。貯金はしない。それは、世の中がぐるぐる変わっていくのを経験してるから、国も銀行も信用してない。自分の人生もどうなるか分からないと思っているんでしょうね。こういう金融危機でも、けっこう精神は平気なんです。日本人はなるべく今使わないで、貯金があっても節約のことばかり考えている。明らかに日本人はこれからもずっとほぼ永遠に人生は続くと思っているし、ロシア人はそれに比べればそう思ってない人の割合は多いでしょう。
でも、戦争末期のころは、都市では日本も違ったでしょうね。5秒後に生きている確立が少ないと思っている人ほど、生に対するひりひりとした感じを持っていて、充実感があるのかもしれない。
S 紛争地帯で生きている人は生きたいのに、環境がともなっていない。だからより生きたいと思っている。日本は逆で、生きられるから、生きたいというベクトルが違う方向に向いている。ちょうどいい精神バランスにするには、やっぱり5秒後、数日後の死を考えるのがいいんじゃないかなぁと。

 

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2009年10月 7日 (水)

死についてのお話 第五回

時計の針が1秒すすめば、寿命が1秒少なくなる。

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A 映画やテレビドラマでは死が多くでてくるけど、やはりどうしても、実際の暮らしでの身近な人の死はドラマティックで、そういう感情、世界になる。そういう風にできているから、人はドラマを作ってきたと思うんです。だから戦争の映画も多い。そういう人の映画を見て、一生懸命生きている姿を見て、いいなと思ったりする。本来、人間はすごく退屈な生き物で、どうしようもなく退屈だから、退屈なままだと精神的に駄目になる。原始時代は毎日が狩りなどでひりひりしていて、その後は戦争や殺し合いがあった。
そういうとき、正義をつらぬこうとする人や、隣の人を自分の命を犠牲にしてまで助けようとする人が出てくる。人間としては充実していて、まっとうな生き方をしているのかなぁと。もちろん悪い人もいっぱいいますが。
S やっぱり単純に、より良くしようと思うのは当たり前で、それで日本の今の平和な環境ができている。そうすると、欲望としてハングリーな時代に向くんだと思います。だから、死を想うことで、ハングリーな精神に持っていくのが必要なんじゃないかと。
A もしそう思えなくて、普通に生きていれば、人生は80歳くらいまであると思ってしまう。それで、もし死のことも考えずに生きれば、退屈になってしまうんでしょうか。
S そうですね。やっぱり期限が決められているほうがいいと思うんですよ。ゲームを何時間でもやっていいと言われれば、だらだらとやるだろうし、30分しか駄目なら集中して夢中になってやる。
A 人生も期限が決められていればと。たとえば僕が30代でできることはあと何年か分かっているじゃないですか。それを考えると、なんとかしなきゃと思う。10代っていうのは、期限がいっぱいあって、中学、高校、次は大学か社会人みたいに、区切られているのが、生の輝きになって、青春となるのかな。
S たしかに、女の子が高校入って、制服着られるのはあと3年だから、制服着てどっか出かけたりとかありますよね。大学もその4年間をフルに謳歌するっていう。20代を謳歌するでもいいですよね。40代を謳歌するってあんまり聞いたことないけど、いいですよね。
A 中世のヨーロッパの人の時計のイメージは、針が1秒進むごとに、自分の寿命が1秒減っていくというものだと読んだことがあります。彼らはバカンスや旅行に頻繁に行きますが、その間に働いて、日本よりも経済大国にしようと思ってはいなくて、今の幸せを求めている。今日一日を存分に楽しみ、今まで作り上げたインテリアだとかお酒だとか文化で充実したものにしていく。日本人は夏は働いて、老後のために貯める。退職してから旅行に行く。
S 一番寂しいのは、老後の為に貯蓄してて今一生懸命働いてるのに、それが今事故とかで亡くなったら、後悔しか残らないなって思いながら日々を過ごすこと。たとえば明日死んでしまうとしても、今老後のために貯蓄することが楽しい日々だったなと思えればそれは良いと思うんですけど。堅実なのは日本人の良い所でもあると思うし。

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死についてのお話 第六回

野菜の皮はむかない

沼畑(以下A) ウェハをはじめて変わったことは?
佐藤(以下S) そうですね……まわりに敏感になりましたね。生活も変わってきましたね、すごく。意識してるのは、食べるってことですかね。食べる行為は命をいただく事で、そこには生と死が存在しているから。食べることに対して費やす時間。生と死を考えること、想うことにおいて、食べることって重要だなって思って。そこに重きを置くようになりましたね。そこを希薄にしてはいけないなと常々思いますね。
A 具体的には?
S 食事の時間をちゃんと取るというか、料理をするという。単純に大事に食べるっていうことですね。
A 作った食べ物を皮ごと食べるという考え方があるけど、そういうのも興味は?
S 極力、皮を剥かないです。生ゴミの廃棄量って人口密度に対してだと日本が一番多いらしくて、食べられるものをそれだけ多く捨てているっていう事ですよね。出来るだけ食べない部分を減らしたいから、積極的に皮は剥かないです。そうしはじめたら生ゴミがすごく減ったし、ちゃんと食べられるものは食べるというか、そういう感覚って大事かなと。命をちゃんといただくということ。
A 肉もあんまり食べないんですよね?
S 生き物を殺して食べることは必要だと思います。でもめっきり食べなくなりました。それ(生き物を殺して食べること)が悪いこととは思ってないんですけど、野菜も肉も命として一緒だけど、自分の中では動物はやっぱり自分に親しいものに感じますよね。それで無意識に減っていったのかな。
A マクロビに近い考え方ですね。
S 有機野菜とか買うのもどうなのかなっていうのがあって、輸送っていうのは気になります。野菜はその土地で採れたものがいいって聞いたことがあるけど……。
A 地産地消ですね。昔はその土地の水を飲んで育って、野菜も同じ土地の土と水で育ったものがいいという考え方。でも、都市にいるとなかなか難しい。浄水場の水で育ってるし。
S 都市に住んでいるってこと自体の問題ですね。
A でもブラジルから野菜とか輸入されていて、日本人でありながら一生たとえばブラジルの野菜を食べて成長したらどうなるんだろう?
S それでも安いから買うんですよね。

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2009年10月 5日 (月)

死についてのお話 第七回

「死にたい」というキーワード

A ウェハの検索キーワードに、「死にたい」という言葉で辿り着いた人がいたんだけど、自殺率は日本はまた世界一にというニュースがありました。
S 10年くらい連続で3万人をこえていますね。
A こないだテレビでやっていたのは、仕事で大きなミスをして、そのまま富士の樹海に来たという人がいて、仕事でくじけてしまっている。僕もサラリーマンのときがあったから分からないことはなくて、やっぱり社内での評価とかを求めて邁進する。プライベートも犠牲にして頑張るから、それで失敗したりすると全否定になってしまう。佐藤さんはサラリーマン生活ない?
S 僕はサラリーマン生活ないですね。
A そうだよね。やっぱり日本人は働きすぎなのかな。北欧みたいに部長が二人いて、週の前半はAさんが部長で、後半が佐藤部長みたいなのってすごくいいと思う。もう給料はそのままにして、自分の時間を多く返してもらう。
S すごくいいですけど、日本人の性格として難しそうですね。
A 今まで労働組合の成果で賃金は上がってきたけど、これからは給料は低くワークシェアリングにして、それでも自由に生きて、子供も育てられるような社会がいい。そのためには文化が必要だと思う。ただお酒飲んで食べてるだけでも、幸せだと思える文化。家のデザインだったり、街の景観だったり、家具だったり、生活を彩るもの。元々美しかった日本の街も、震災や戦争で壊れてしまったせいか、やっぱり海外の都市に比べて、そこにいるだけで幸せな気分になれるとは言えない。
S 仕事をしない時間に料理をしたりするのもいいと思います。本来、人はそうやって料理したり、いろいろやってると忙しいはずなんですよね。それが文化というか、充実感に繋がるはず。
A 日本でも手作りの麺とか、お餅とか重宝されるけど、田舎にそれを観に行ったり、買ったり、結局ビジネスになっちゃうというか、お金を出して買う。
S そうですね。なんでも買う。でも買わなくていいものっていっぱいあって、料理をするっていうのも一つ。僕は今は外食をほとんどしない。大家さんが野菜を分けてくれるっていうのもあるんだけど、それがコミュニケーションになったりして、充実してる。
A 昔は家具とかも近所の職人さんが作ってくれたりね。
S 今は何でも買ってしまう。買えないことで得るものって大きいと思うんですが。

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2009年10月 4日 (日)

死についてのお話 第八回

仕事に人生を捧げる男性

A なんでも買えるっていう行為をストップして、本来やるべきことを見直すっていうのは、すごくいいですね。
S 生きる上で何が必要かっていうのを考えたほうがいいですね。
A ちょっとした面倒くさいなと都市生活で思うような何かに、実は生きる充実感みたいなものが隠れていると。
S そうですね、まさに。
A それをおざなりにして、仕事ばかりしていると危険だと。
S  危険ですね。仕事頑張っている人に頑張るなとはなかなか勇気がいりますけど。
A 俺は言いたいな。何でも力いれすぎというか。みんながんばりすぎということ。たとえばデザインの依頼受けると、お金をもらってるからいろいろコテコテにしちゃうとか。依頼するほうもそれを求めてるときがあったり。あと、歌の上手い人ってすごい抑揚つけて歌ったりするけど、それが結構嫌味だったり。サッカーだと前がかりすぎてカウンターを食らってしまうというか。
S バランスが大事ですよね。でも頑張るなと言いづらいほどの世の中であることが問題なんじゃないかなと。自分は、自分がそういう生活をすることで、自分の言葉にも説得力を持たせたい。
A それも頑張らないでと言いたい(笑)
S そうですね(笑)
A あくまで楽しいことが大事。
大島(NON’SHEEP マネージャー) 女性は自分の幸せをメインに考えて仕事をするし、プライベートも絶対充実させたい。女性と男性で自殺率が高いのは男性なんですけど、すごくそれが表れてる。何か嫌になることが多いのは男性で、それが人生のメインである仕事。女性だとそこまで考えていない。いっぱい選択肢がある中のひとつが仕事で、出産もあったり、常にそれが頭の中にあって生きている。
S 出産は大きい。
O 出産は大きいし、出産しなくても、好きなことを仕事にしたいと思える。楽な方に考えられる。
S 男性は女性を養うというのがあるし、実際は変わってきてるけど、考えとしてある。
O 女性が追い詰めているというのはありますね。女性はのびのびとしてるのに。
S アメリカの夫婦は4組に1組が女性の方が年収が高いというんです。それで、旦那さんは仕事が忙しくて家事とか子供の世話ができないことが不安。夫としてお父さんとしての役割を果たせない。一方で奥さんは家事ばっかりで自分の仕事が充実しないことが不安。やりたいことが逆になってきている。旦那や家庭に自分の仕事が乱されるなんてありえないと、強気の女性たちがいる。

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2009年10月 3日 (土)

死についてのお話 第九回

「頑張れ」という期待がもたらすもの

A 専業主婦の場合は、子供にがんばりを集中する。プロ選手やオリンピックに出るような選手にしたい、東大に行かせたい、医者にさせたい、大企業に就職させたい。イチローみたいになれるように毎日頑張りなさいと親は言う。頑張れば東大行けるわよと。でも、上の方に行けるのは数が限られているわけだから、それが失敗したときに子供にどう言うのか。実際に、医大に行けと子供に両親が言い続けて、受験に失敗して家庭内暴力が始まり、引きこもり、精神不安定というパターンがある。医大受験に失敗したら、親からは失敗人間だと見なされると子供は感じる。
S 子供には辛いですね。
A たとえば小学生でサッカーをやっていて、中学で県大会に行けなくて、上には上がいることを知る。それでサッカーをやめる。たとえば歌手を目指していて、オーディションで落ちて、歌うのをやめる。そこでみんな一番上に行けないことを理由に好きなことをやめたりするけど、やめる必要があるのか。好きだったらずっとやっていればいいと思う。でも「頑張りなさい」「上に行きなさい」という社会では、大きな挫折にしてしまう。そもそもプロというものがない時代は、小さい村でいつまでも唄っていたはず。
プロのサッカー選手や浅田真央には頑張ってと言いたい。でも、頑張らなくていいことも認めたい。
S 頑張りたいと思うのはいいと思うんです。音楽に関しては、最初は楽しくて音楽をやり始めた。それから、それを仕事にしたいと思った。でもそれだけじゃないんですよね。音楽だけで生活が成り立っているわけじゃない。音楽で食べていきたいとは思った。それに対してすごく頑張っている。何かのきっかけで音楽をやめる人は、「音楽を仕事としようと思っただけだから、仕事にならないならやる必要がない」という人と、「音楽でメシを食える見込みがなくなったけど、楽しいからやるよ」っていう人がいて、前者の人は音楽で食べていくって事に凝り固まってしまったんですよね、最初は楽しいからやり始めたはずなのに。後者の人って音楽だけじゃないと思うんです。他に遊びもある。柔軟性がある。別に音楽やめなくてもいいじゃんと思ってる。それも頑張りすぎないということだと思うんですけど。

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2009年10月 2日 (金)

死についてのお話 第十回

「やりたいことをやる」意味

A 今、私がやっているアワライという活動は、普段日本人が家庭や街で歌うことがなくなったということに対してはじめたんだけど、カラオケボックス以外で。それで、日常で歌を取り戻す、人に歌を取り戻すというのが、もしかしたら自殺だとかに少しでも関係するんじゃないかなと思って、人は言葉よりも先に歌っていたという説もあるくらいだから、歌って精神を健全にするんじゃないかなと思ってはじめたんです。この活動のトークイベントに出てくれた大賀埜々さんは、オーディションで見いだされてデビューしたあとに、いろいろとプロの世界でもまれて、歌うのをやめてしまった。カラオケでもあまり歌えなくなった。元々すごく歌が好きだったのに、そんなことが起こる。トークイベントでは久々に人前で歌ってもらって、すごい葛藤があったみたいだけど、会場はすごい感動で大成功だった。音楽業界はどんどん歌の上手い人をプロ化していって、「上手い人じゃないと歌ってはいけない」ぐらいの勢いを日本の常識にしていった。カラオケボックスはそれを加速させたような気がする。でも海外にいけば、普通に道を歩きながら誰かが歌っている。
S 大きすぎる仕組みができすぎているんですよね。あるミュージシャンが5年ぐらい前に言っていたんですけど、今後小さいレーベルがどんどん増えていって、音楽っていうものを共有していくようになるだろうと。権力的なものに左右されたくないという人が増えてきている。一方で大きい力にまかれる安心感みたいのもあると思う。
A 社会のせいになんでもしたくはないけど、一応、お金、ビジネスに関しては社会があって、権利を持っている人は、その内容が古いとか面白くないとか関係なく死守しようとする。その大きなビジネスの中で、ライフスタイルが決められている部分もある。ロックは一時期ラベル(反抗)というか、カウンターカルチャーという側面があったけど、アメリカのそういう部分に対する反抗だったと思う。佐藤くんが言っている、ちゃんと作って食べるっていうのも、ある産業に対する反抗とも言えるし。
S 人間は欲があるから買ってしまう。そしてそういう環境がある。自分が社会に投げかけていることは個人に投げかけていることで、個人に投げかけているのは社会に投げかけていること。結局はどっちも人間だから、一心同体でしかない。だから自分が意識して動かないと何にもならない。
A 社会に左右されない、みんなやりたいことをちゃんとやるっていうのがいい。
S 歌うことだったり、小説書いたりは、楽しいから、興味があるからはじめたことで、誰からも勧められたわけじゃない。親に「歌をうたえよ、仕事にしろ」と言われたわけじゃないし、歌を歌うことが楽しいというところからはじまって、それが賞とかオーディションで駄目で、仕事にする夢は破れる。でも楽しくてはじめたことだから、そこに帰ればいいですよね。でもさっきの医大を目指す人の話だったら、「あなたお医者さんになりなさい」と言われる。人体に興味があってはじめたなら、医大に失敗しても続ければいい。何をきっかけに始めたのかで、そこに帰られるのかが決まるので、それを自分の中で大事にするべきだと思う。

A 今話してきたようなことで自殺者数が格段に減るようなことはないかもしれないけど、縄文時代は1日4時間くらいしか労働しなかったって言うし、男だったら狩猟だよね、4時間狩猟したら「あー疲れた」って言って、あとはのんびりしている。今の人間も週4日とかの労働でいいんじゃないかな。あとは好きなことをやって。
S きっかけに戻るっていうのは大事かもしれないですね。生きることに対して。仕事するために生まれてきたわけないじゃない。何のためにも生まれてきたわけじゃない。それをネガティブに捉えるかポジティブに捉えるか。僕はポジティブに捉える。

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2009年10月 1日 (木)

死についてのお話 第十一回 矛盾の世界

矛盾は現実であること

佐藤雄駿(以下S)詩人の谷川俊太郎さんがある本で紹介していた「矛盾してなきゃ、現実ではない」というシモーヌ・ヴェイユという人の言葉があって、それを読んだときにすごく感銘しました。普段いろいろ考えているとき、考えれば考えるほど、矛盾していないことなんてあるのかなと。矛盾だらけだなと思ったときに、この言葉がすっと入ってきた。
でも、心の底からそれを受け入れて生きていけるのかなと。

沼畑直樹(以下A)
矛盾があることが今の人生、今自分たちの置かれている状況だということ?

S そうですね。矛盾してないことってあると思います?
A (矛盾というのは)善と悪とかで分けることができないってことかな。
S そういうことです。僕がよく言う犬の保健所の話とか、人間の言っていることは矛盾してることが多い。
A それは人間のやっていることは正しくないってこと?
S 正しい正しくないすらもわからない。なんに関しても、多数派と少数派でしかない。
A たとえば自分がいつも心がけているのは、デザインでポップというテーマ、禅というテーマがあって、どちらも好きだと。でも私は禅というテーマがデザインでは世の中で一番秀逸だと思うので、すべて禅をテーマにデザインしますと宣言して実行すると、好きなはずのポップを捨てなきゃならなくなる。そうやって主義を主張したりするのはビジネスとして政治や会社、文壇などでみんなやるけども、人間としては矛盾してるいくつかの意見を同時に持っているのだから、断言するのは危険だと。今はこうだけども明日は変えます、という前提で主張するのはいいのだけど、自分の中にあるいくつかの趣向や意見は持ったままにしたい。
政治の話になって自衛隊は必要だという人と必要ないという人で大激論になって仲違いしたとしても、数年後には二人の意見は入れ替わっているかもしれない。みんな生きているとそういう紆余曲折があるはずだけど、人間はそのときそのときの考え方に固執しやすい。

S 考え続けているから、善と悪の基準も変わり続けるし、その基準が変わることすらおかしい。過去に悪とされた人が今は悪じゃなかったりするのは、それ自体罪なこと。命は平等だと世の中は言っているけど、ぞんざいに扱っている例は普通にあるし、犬をかわいく生まれさせるために品種改良するけど、クローン牛は駄目だとか。でもすべて結局、人間の中の判断基準でしかない。それって、ヒトラーがやっていたユダヤ人に対する話と大差がないというか、力のない、少数派の人をねじ伏せているだけで。法律のもとで裁かれる人も少数派なだけだと考えてしまう。善と悪ではないと。でもそれも25年間生きてきて、植え付けられてきた価値観をもとにしている。
でも、そうやって世の中をさげすんでいると、「じゃあ生きてなきゃいい」と言われてしまっても仕方がない。でも世の中に属さないことは無理で、生きるか死ぬかしか選べない。だから「死ねばいいじゃん」と言われても言い返せない。自分がここにいることを正当化できる言葉をまったく持ちあわせていない。だけど生きている自分も矛盾している。

A じゃあ人間の存在そのものが矛盾しているかもしれないということを考えている?
S そうですね。現状をいくら考えても、そこに落ち着いてしまう自分がいて、あの言葉が納得できたんだけど、あの言葉にはある意味、開き直りという姿勢もあるじゃないですか。

続く(第十六回まで「矛盾の世界」)

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2009年9月30日 (水)

死についてのお話 第十二回

人間は価値はないが、心がある

A まずは自分の考え方として、人間はいらないと。地球は人間がいなくても生きていけるし、地球だけで生きていける。いろんな生命は生まれたけども、それがいなくたって地球。隕石が落ちてマグマで覆い尽くされてもそれは地球。美しくなくても地球。我々が存在しなくても、「地球のために生きている」なんて立派な理由はない。でも、生命が生まれて、地球は美しくて、我々はご飯食べて幸せだとか感じる知能があって、楽しく生きている。そしてもしかしたら未来は、人間が地球を食い荒らして、資源がなくなったと違う星に行ってしまうかもしれない。もしくは、駄目になった地球を救いたいと言って、他の星から資源を持ってきたりするかもしれない。
そんな人間がこの地球に存在していること自体、矛盾の可能性がある。
人間が文明を興して、都市を造るときに、自然の中に石を敷いた。敷かないと自然は時につれて景観が変わるので、自分の財産として見るには固定したい。人間はそうやってイメージで生きるものだから、変わり続ける地球と相反している。最初から敵対していて、環境破壊も当然おきる。だけどそう考える僕は、都市の景観や都市が大好きで東京に住んでいる。
チェルノブイリみたいに、住んでいた人がみんな出て行って、自然の力で再生を始めたってのは面白い例だと思う。

人間は常にエゴイストで、地球に対しては矛盾している存在で、常に敵対行為をしていて、それでも「ぼくたちには生きている意味がある」と、存在意義を追い求めるから苦しくなる。最初から立派な存在意義はない。でも、人間として愛はある。家族は美しい。子供は美しい。友達と会うことは美しい。青春は美しい。何か賞をとったり、みんなと何かを達成したり、人間の中での美しい行為はいっぱいある。老夫婦とか。人が死んだときに悲しいとか、号泣するとか。そのときに、地球にとって意味はない人間と、美しいことを感じる人間というのが矛盾してしまう。
人間は地球に必要ないというのを前提に、謙虚に生きなければならないと俺が思って、人間はちっぽけな存在だと言っても、いざ肉親が死ぬと号泣する。ものすごい大きな価値を亡くした気持ちになる。

S 開きなおれないところなのかな。そのふたつの間で人は揺れているというか、美しいと思えることがあったり、価値がないと思ったり、ぬぐいきれない矛盾を考えている。先日、谷川俊太郎さんに直接話す機会があって、「矛盾してなきゃ、現実ではない」という言葉を引用したことについて聞いてみたんです。その言葉は頭ではわかるけど、実際に納得して実行できているんですかと。すると彼は、そもそも矛盾という概念自体が、言語によって生まれたことで、男と女とかを区別できるようになったと。整理や秩序はできたけど、ふたつにしたことによって、二元論で人が語るようになったことで矛盾が生まれたと。もともとは矛盾なんて存在しなくて、存在しているものすべてが、全部をはらんでいるという、全体は一つだから、矛盾も何もない。だから、物事は一つだと捉えるような努力を僕はしていますと答えてくれた。それは、谷川さんが終始言っていたんですけど、老いていくことによって、おおざっぱ、いい加減になっていくと。それを言われたときにそうだな、と思ったんですけど、老いていくことと言われてしまうと、そこにすべて集約されているような気がして。老いていくことでやがて分かることがあって、受け入れることがあって、77歳の彼がそれだけ生きて経験があって、77年間生きている人はみんないろんな経験がある。でも、それは自分にとっては答えにはなっていなくて、そうですか、としかいいようがなかった。

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2009年9月28日 (月)

死についてのお話 第十三回

判断基準は増えていく

A みんな小学校、中学と育って、だんだん自分は何者かと考えるようになって、よりどころが欲しくなる。だから、俺はこんな音楽が好き、映画が好き、服が好き、こんな考え方を持っているとか、自分の判断基準を作りたくなる。判断をしたくなる。
S 自分の人格を作りたくなる。
A そのために判断する。これはいいものが悪いものか。俺はこれがいいと思うと、友達に主張する。この新潟でつくられている箸はいい。おまえの箸は駄目だと。そうやって自分をアピールして、それが俺なんだと言う。そういう行為をいろんなところでする。それが年をへて薄まっていく人もいれば、死ぬまでそうして生きる人もいるかもしれない。谷川さんの70代のだんだん包括していくっていうのは、彼も若い頃はいろいろ判断していたと思うんだけど、昔は「おまえはこんなことを書いているがこれについてはどう思うのか。言え!」みたいな激しい時代があったので。それで、彼もこの日本酒は絶対においしい。俺の酒だ。とみんなに宣言、判断をして、でも数年後に、あれ? そうでもない。どうしよう。意見を変えなきゃ。みたいな経験があったと思う。そうなると、もう一つの価値に対して1、2じゃなくて、無数に重ねていくことになる。10通りの物事に対するセンスみたいのが生まれてきて、「僕はこれです」とは言えなくなる。それが増えていくだけ、全部が1だという考えに近づいていく。

S なるほど。純粋にそうだなと思ったのが、川合隼雄さんが言っていたのは、すべてを星座だと考えるということ。彼はここで、彼はここでと、みんな違う星で生きている。みんな違うところで生きて、違うところから意見を言っている。川合さんが人の意見などで不快な思いをしたときに、相手は違う星にいると。この人は違う星にいるんだから、違う意見を言うのは当たり前だし、矛盾するのも当たり前だと。
でも、全部1の中に、夜空の中にみんな配置されている。

A 結局は一緒だと。
S そうです。
A それはそうかもしれないね。何を苦しんだり、お金もうけしたりしても、人間という中の行為であって、たいしたことではない。
S それに、いくら自分で考えても、人間の思考能力の範囲を逸脱できないというのはわかりきっている。でも、それを「あ、わかった」と思っても、そういう人間になれるわけじゃない。

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